後半生の二番手に登場するのは、意外に街道一の大親分と言われた清水の次郎長である。江戸末期に清水一家を形成し、その生き様は講談や映画に取り上げられて、大衆のヒーローと愛されている。しかし次郎長は後半生をどう生きたかはあまり知られていない。意外にも心機一転、荒れた生活をやめ、静岡の発展に尽くしていた。
1868年明治に突入する直前、次郎長が49歳の時、清水に停泊していた、旧政府軍が新政府に発見され、船員全員が殺害される事件が起こった。殺された船員は逆賊としてさらされたが、見るに見かねた次郎長が死体を手厚く埋葬した。
新政府から咎められたが、「死者に賊軍も官軍もない」と言ったと言う。この義侠心に感心したのが、山岡鉄舟だった。
(山岡鉄舟とは思想、剣、禅、書の達人、江戸城無血開城の時勝海舟に先立って、単身西郷と会って無血開城を準備した、当時勝海舟と高橋泥舟と「幕末の三舟」と言われた人物)
次郎長と鉄舟は意気投合した。56歳の次郎長は清水に到着すると、鉄舟の勧めで富士の裾野の開墾事業を始めている。現在この場所は次郎長町とよばれている。
また清水の発展の為お茶の販路拡大の為港の整備と蒸気船の必要性を説き、その尽力で清水は貿易港として発展の後押しをした。若い海軍候補生達は清水に寄港して次郎長の武勇伝を聞くのが楽しみだったそうだ。次郎長の晩年は若い時とは違った格好良さを貫いた人生であった。
伊能図ー100歳時代ー48
後半生に転機ー100歳時代ー46