3番手に登場する後半生に活躍した人は伊能忠敬さんである。17年をかけて、日本中を歩いて測定し、現代でも参考にされる程正確な日本地図を作成したのは伊能忠敬の56歳からの挑戦だつた。
18歳で酒屋などの商売をしている伊能家(現在の千葉県)に婿入りし、上手くいかなくなった事業を立て直し、50歳で息子に家督を譲って隠居生活に入った。
翌年江戸に出て,新進の天文学者高橋至時に入門し,「天文」と「暦学」の勉強をはじめた。早速自宅に観測所を作り、太陽や恒星の観測をはじめた。
毎日星の動きを観測する内に、師匠の至時が「太陽や月の動きを正確に予測するには地球の大きさを正確に知る必要がある」と考えている事を知り、浅草から深川まで約4.2キロを歩測して、地球のサイズを計算した。この時至時は「こんなに近い距離を測って、地球のサイズがわかるの?」と相手にされなかった。
せめて蝦夷地までは観測しないと信頼する結果は出ないのではないかと考えてようで、忠敬は全国測定行脚を決意する。1800年に幕府に測量の申請をだし、認められて第一次蝦夷地観測を開始した。
弟子6名と共に180日かけて歩いて測量、歩幅は69センチメートルで歩く訓練をしていた。根室まで3200キロメートルあった。毎日歩いた歩数を数えて、夜は方向を三角関数を使って確認する一方星の位置から観測結果が正しいかを確認する毎日の粘り強い繰り返しであつた。この間の詳細は井上ひさしの「4万歩の男」に詳しい。
その結果を師匠に提出、この実績が認められ翌年伊豆半島から下北半島まで測量を行った。次いで日本海側の今の山形県、秋田県、新潟県を毎年のように測量した。
幕府は当時正確な地図が欲しかった事もあり、しかもこの地図の正確さに驚いた幕府は全国に「忠敬が測量に行くから手助けするように」との連絡をまわして後押しした為測量は順調に進んだ。1804年に初めて測量結果を地図として、幕府に提出した。1818年忠敬が74歳で無くなるまで続けられた。
3年後に「大日本沿海奥地地図」としてまとめられ美しく正確な手書きの彩色地図は「伊能図」とも呼ばれ、近代行政地図を作る際にも参考とされた。今も海外からその精度を称賛されている。
新渡戸稲造ー100歳ー49
次郎長の後半生ー100歳時代ー47